掛布さんが好き、片岡さんが好き、渡辺くんが好き。DNAがタテジマなsoraの野球話。
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キャンプ第一クール終了。
特打、特守、深イイ話のトリプルコンボは、もう鳥谷にごろんごろんするっきゃないね!(笑)
実は私、ピヨみたいな長打も狙って欲しいような打者がオープンスタンスなのが今ひとつ納得がいってないので、ピヨの打撃はそんなに注目してなかったんだけど、でもあの『ぱったん』と踏み出し右足は好き。
守備は1年目にエラーが多かったせいで大して上手くないイメージがついてしまったけど決してそんなことはなく、安定したスローイングが素敵だと思う。
友人ともよく言うのだけど、どんな打球でもどんな体勢でもいつもおんなじフォームなんですよね。
いつでもおんなじ球筋、ビシッとファーストへ正確な送球。
さすがリリーフピッチャーしてただけの事はある(笑)
考えてみると、ピヨはバッティングでもいつもおんなじスイングのような気もしてきた。
同じステップ、同じテンポでスイングする、ような気がする。三振でもホームランでも、おんなじ。
はまる日は猛打賞、あわない日は4タコ。なんかそんな気がする。
深イイ話は、私が改めて書くまでもないくらい可愛い笑顔!
みたことないような若者の表情で、聞いたことないくらい高い声で喋ってましたね・・・。
あ、外伝では特走がおもしろかったです。
走塁って本当に地味で目立たないけど、重要で面白い。
レッドが光り輝いて見えました。スピードスタァだ・・・まぶしい・・・。
マコ・・・(笑)
特打、特守、深イイ話のトリプルコンボは、もう鳥谷にごろんごろんするっきゃないね!(笑)
実は私、ピヨみたいな長打も狙って欲しいような打者がオープンスタンスなのが今ひとつ納得がいってないので、ピヨの打撃はそんなに注目してなかったんだけど、でもあの『ぱったん』と踏み出し右足は好き。
守備は1年目にエラーが多かったせいで大して上手くないイメージがついてしまったけど決してそんなことはなく、安定したスローイングが素敵だと思う。
友人ともよく言うのだけど、どんな打球でもどんな体勢でもいつもおんなじフォームなんですよね。
いつでもおんなじ球筋、ビシッとファーストへ正確な送球。
さすがリリーフピッチャーしてただけの事はある(笑)
考えてみると、ピヨはバッティングでもいつもおんなじスイングのような気もしてきた。
同じステップ、同じテンポでスイングする、ような気がする。三振でもホームランでも、おんなじ。
はまる日は猛打賞、あわない日は4タコ。なんかそんな気がする。
深イイ話は、私が改めて書くまでもないくらい可愛い笑顔!
みたことないような若者の表情で、聞いたことないくらい高い声で喋ってましたね・・・。
あ、外伝では特走がおもしろかったです。
走塁って本当に地味で目立たないけど、重要で面白い。
レッドが光り輝いて見えました。スピードスタァだ・・・まぶしい・・・。
マコ・・・(笑)
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先日は書きかけのままアップしてすみませんでした(笑)
さて、キャンプ。
毎日2時間半を仕事終わって夜に全部見るのは、残業が多いとなかなか至難の業です。
やっと2/2分を見終わったよー。
初日はほとんど映ってなかった渡辺のブルペンがじっくり流れた!
うむ、なかなかいい。
去年のキャンプよりは体が動いてそうな印象です。
「去年の二の舞にはならない」と本人が言ってたそうで。
ええ、覚えてますとも。私が安芸についた朝、入れ違いで前日に鳴尾浜に帰っていたことを。
今シーズンは50試合登板、防御率2.30が目標だってさー。
ドゥフフ。
わっぴーも良かったんだけど、この日はちょびヒゲ(安藤)がめちゃくちゃ良かった。
スローのピッチングフォームがものっすごいカッコよかったのだ!
あのフォロースルーだけで惚れるわ(笑)
左足を踏み出してボールが手を離れる瞬間っていうのは球児くんがピカ1ですが、投げ終わったフォロースルーはちょびヒゲが上回ったね!
ちなみにわっぴーは左足をあげて右足に全体重がかかる瞬間がいいのです。でも本当はクイックのほうが好き(笑)
sora [ ソ ラ ]
右打右投
性別:女
星座:さそり座
血液型:O型
特技:へんなあだ名付け
■DNAがタテジマの幼少期~小学生
大阪の片田舎、典型的な阪神ファンの家庭に産まれる。
負けてる試合は気分悪いので見ない。勝ってる試合は見ると逆転されるので見ない。
そんな家庭。
それでも幼稚園の時点で六甲颪と選手のヒッティングマーチは歌えた。
珍しく試合の中継をたくさん見た年は、カケフさんが打ちまくってキーオが投げまくっていた。
優勝した。
カケフのおかげだと幼心に思った。
優勝が決まる日の試合は、父がいそいそとビデオをセットしていた。ベータなので今はもう見れない。
ふだんは買わない新聞や雑誌を父はたくさん買ってきた。
小学校には阪神の下敷きやら帽子やらの男子がたくさんいた。タテジマの帽子が欲しかったけど親には言えなかった。
ある日、カケフさんがケガをして試合に出なくなった。悲しかった。
真弓さんが4番を打つ姿を見て、あぁこんなすごい人が1番バッターやったなんて、あのときは強かったんや、と思った。
ドラフトで湯舟さんが入った。
阪神に入りたいと最初から言ってくれてたのに球団は小池を指名して外し、「ほんなら最初から湯舟にしとけよ」と小学生ながら思った。
■上から目線の中学生~大学生
中学生になり、亀山・新庄ブームが来た。
部活の先輩が「新庄さまv」とミーハーファンになっていて毎日話を聞かされた。
たしかにかっこよかったし面白かったけど、私は久慈さんのほうが活躍していると思っていたので、久慈さんが新人王を獲ったときは「やっぱり大人は久慈さんをちゃんと見てるんや!」と嬉しかった。
桧山が4番になった。
「たしかに他におらんけど、桧山て!」と思った。
しかし桧山のことは好きだった。
顔が可愛くて喋りも達者なので、母ともども応援していた。でも三振王になった。それでも4番はひぃやん以外考えられなかった。
和田さんの打率くらいしか明るい話題はなかった。
藪くんも応援していたがやっぱり勝てなかった。
そんな暗黒時代に活躍していた関川さんと久慈さんがトレードで移籍になった。本気でびっくりして、移籍がこんなに悲しいことだとはじめて知った。
またドラフトがあった。
今度は高校生ピッチャー藤川を1位指名したので、「この低迷期になんで高校生獲っとんねん!即戦力を獲れよ!」とマジギレした。女子大生とは思えない科白だった。
若い浜中とひぃやんと熾烈なポジション争いが始まった。
私はひぃやんを応援していたが、母はいつの間にか浜中が好きになっていたらしく、「どっちも出てほしいわ~」と苦悩していた。
FA制度ができ、片岡さんが来た。涙の移籍会見に感情移入して、これからよろしくね、と思った。
片岡さんはなんかやってくれそうで超期待したが、わりとすぐケガをした。
私はこの頃に音楽に目覚め、ライブに行きまくるようになった。少しだけ野球から遠ざかった。
■甲子園デビューした社会人
金本さんが来た。来て欲しかったので、土下座したファンにグッジョブ!と思った。
これまた何かしてくれそうだと思ったら、金本さんは本当に大事なところでばかり打ってくれて、なんと優勝した。
この頃は社会人になっていた私は毎日『すぽると』さえ間に合わない時間にしか帰宅できず、あまり中継は見てなかったがネットの一球速報を会社で見ていた。
優勝の瞬間はその一球速報で知り、慌てて会議室のテレビをつけて胴上げを見た。
監督が岡田になった。
現役を知ってる人が監督をやる年齢になったんだなぁ、と感慨深かった。
鳴り物入りで鳥谷がやってきた。
若者には頑張って欲しかったが、私の大好きなもっさんからポジションを奪ったので、「鳥谷がセカンドやればいいのにー」と言ったら母には「新人にコンバートはちょっと無理やで」と冷静に言われて納得した。
私は転職した。
仕事はまあまあ忙しかったので、帰るといつも中継ぎ陣かJFKが投げていた。
劇場型の久保田にヒヤヒヤし、球児くんを懸命に応援した。まさかあの高校生がこんなになるとはねぇ、と密かに思っていた。
母は仕事に明け暮れる私をよそに、「赤星また痩せたなぁ、早よう嫁さんもろてご飯作ってもらいー」とテレビに語りかけるのが日課になった。
新しい職場には甲子園の近くに住んでいるという筋金入りの女性がいて、私が子どもの頃に掛布さんが好きだったと言ったら非常に受けた。
実は、こんなに好きなのに甲子園に行ったことがないとその人に言うと、連れていってくれた。
2005年の夏だ。
仕事終わりに甲子園へ駆けつけ、その外観に感動していると、わぁっとものすごい大歓声が球場から響いた。
アニキの先制ホームランを見逃した。
びっくりするくらい今岡がランナーを返した年にも関わらず、スタメンが片岡さんで嬉しかった。
世間の期待は浜中にかかっていたが、ひぃやんが出ていてすごく嬉しかった。
しかも勝った。
ヒーローはアニキと下柳という超レアなお立ち台で、球場観戦に見事にハマッた。
自分でチケットを取って甲子園やら大阪ドームやらに行くようになった。
偶然にも、ライブでよく見ていたバンドが選手のテーマ曲を書き下ろしたこともあって、ライブに野球にと忙しくなった。
片岡さんが引退した。引退試合の日はやっぱり忙しくて一球速報で見た。
悲しかった。
でも『ぶったま!』のレギュラーが決まったので、あっちゃんには毎週テレビで会えるからいいか、と思った。
■渡辺元年、わっぴー誕生
2007年が始まった。
いつの間にかいーくん(井川)がいなかった。
ある日、見たことのないピッチャーが敗戦処理をしていた。
背のちいさな、細身でツリ目のピッチャー。それが渡辺だった。ツリ目が好きな私は記憶しておくことにした。
ひぃやんは代打のひとになっていたが、打っても打ってもセカンドゴロだった。泣けた。
いよいよ球場観戦が増え、ナンバージャージを買うことにした。
私は買うなら背番号入りにしよう、そして金本さんか球児くんにしよう、と思っていた。
ふたりとも阪神に欠かせなかったし、金本さんのここぞという場面で打つ姿に掛布さんを重ねていた。
球児くんは、誰よりも打たれてほしくないピッチャーだった。
だが結局、セール価格になった2003年の8KATAOKAを買った。球場では注目の的だった。
同時期にひぃやんのナンバージャージを買った友人は、逆にどんどん減っていく24ユニに恐れおののいていたが、満塁ホームラン打ったり上原から決勝ホームランを打ったらまた増えた。
夏になって、渡辺がまた投げていた。
気が付けば敗戦処理からうっかり逆転してもらって勝ちがついたりしていた。
あぁ、渡辺がステップアップしている。
嬉しかった。
秋には打たれはじめた久保田の代わりに接戦の場面で出てきた。
得点圏にランナーを背負った渡辺を見て、 「私、この人に打たれてほしくない!!!」 と球児くん並みに強く強く祈った。
渡辺は抑えた。
私は本当に嬉しかった。球児くん並みに嬉しかった。
あ、私この人が好きなんだ。
毎日、私が帰る頃に投げているツリ目の若者がだんだんとステップアップしていく姿に喜びを感じていたことに気づいた。
ある日、延長戦になって、JFKを使い果たしたとき、球児くんのあとに出てきたのが渡辺だった。
これぞステップアップだ。
そんな場面で使ってくれた岡田はんに私は感謝した。
9月末、球場で観戦していると渡辺が出てきた。私はちゃんと抑えて欲しくてどきどきそわそわした。
一緒に見ていた友人が「渡辺くんにあだ名つけてよ」と言ってきたので「わっぴー」と名づけた。
愛着がわいた。
シーズン終盤、鳥谷が怪我をして試合を休んだ。
今までに味わったことのない喪失感だった。そんな自分にびっくりした。私が望んでも望まなくても絶対にショートにいた鳥谷。知らぬ間に好きになっていた。
その年は激しい追い上げに神経をすり減らしたが結局中日に負けた。
でも楽しかった。
初めてのクライマックスシリーズは、母は「連勝か連敗やな」といい、本当に連敗して終わった。
オフになって、初めてひぃやんに間近にお会いできた。じぃんときたけど、不思議な気持ちでもあった。
ピヨとセッキーへの愛が増した。
わっぴーにも遠巻きに会えた。至って普通のお兄ちゃんだった。
おさむちゃんがトレードされた。母はとてつもなく寂しがった。
私もまた、失って初めてこんなに好きだったんだと気づいた。
自分への誕生日プレゼントに、25WATANABEのナンバージャージをネット注文したが、3週間後に新井くんがやってきた。
若干、本気で恨んだ。
オリンピックの予選があり、国際試合の面白さに目覚めた。新井くんがヘッドスライディングを下が届かず、地面でクロールしていた。ちょっと気に入った。
ついにファンクラブに入った。わっぴーはスタバでプロポーズしていた。
■2008年
新井くんが大雑把な性格で、消火器をバッグに入れられたのに気づかず持ち帰ったことを知った。気がついたら、チョー可愛く思えるようになった。
スカパーに入ってキャンプから真剣に見まくった。
ピヨ谷くんの表情の変化がわかるようになった。普通の若者だった。
初めて安芸キャンプも行った。
夜行バスで現地についた朝、友人がスポーツ新聞のサイトを確認すると、渡辺が前日に二軍落ちして鳴尾浜に帰っていた。
魂が抜けた。
開幕戦に行ったらわっぴーが登板した。
岡田はんありがとう、と泣きそうになった。
甲子園の開幕戦、アニキの2000本安打を見るつもりで行ったら、ひぃやんが打った。
前年、一度でいいから生で見たいと思っていたひぃやんのヒット。しかもタイムリー。そのうえお立ち台。友人は泣いた。
ひぃやんは新・代打の神様になった。
新井くんは可愛すぎてタカヒロになり、新井ちゃんはアニキが好きすぎてキモい域に達した。
オリンピックと交流戦について考えすぎた結果、パリーグがめちゃめちゃ楽くなり、野球というスポーツそのものが楽しめるようになった。
一方で阪神は今年こそ優勝すると信じていたので、30試合近く見に行った。
わっぴーの初お立ち台を甲子園で見たけど、負けのついた試合も2試合とも見た。うなされた。
球児くんの救援失敗も全部見た。のろわれているとは思っていない。
貴浩の可愛さと打ちまくりっぷりにオリンピックも超期待したけど、まさかの骨折発覚で泣き崩れた。
本当に優勝する勢いだった分、オフはへこんだけど、本当に楽しい楽しいシーズンだった。
またオフにひぃやんに会えた。前の年よりは不思議じゃなくなった分、可愛く思えた。セッキーは相変わらず可愛かった。
球児くんに直接「今年楽しかったよ」と伝えることができて、本当によかった。
■2009年
とても楽しみである。
目指すはWJF。
右打右投
性別:女
星座:さそり座
血液型:O型
特技:へんなあだ名付け
■DNAがタテジマの幼少期~小学生
大阪の片田舎、典型的な阪神ファンの家庭に産まれる。
負けてる試合は気分悪いので見ない。勝ってる試合は見ると逆転されるので見ない。
そんな家庭。
それでも幼稚園の時点で六甲颪と選手のヒッティングマーチは歌えた。
珍しく試合の中継をたくさん見た年は、カケフさんが打ちまくってキーオが投げまくっていた。
優勝した。
カケフのおかげだと幼心に思った。
優勝が決まる日の試合は、父がいそいそとビデオをセットしていた。ベータなので今はもう見れない。
ふだんは買わない新聞や雑誌を父はたくさん買ってきた。
小学校には阪神の下敷きやら帽子やらの男子がたくさんいた。タテジマの帽子が欲しかったけど親には言えなかった。
ある日、カケフさんがケガをして試合に出なくなった。悲しかった。
真弓さんが4番を打つ姿を見て、あぁこんなすごい人が1番バッターやったなんて、あのときは強かったんや、と思った。
ドラフトで湯舟さんが入った。
阪神に入りたいと最初から言ってくれてたのに球団は小池を指名して外し、「ほんなら最初から湯舟にしとけよ」と小学生ながら思った。
■上から目線の中学生~大学生
中学生になり、亀山・新庄ブームが来た。
部活の先輩が「新庄さまv」とミーハーファンになっていて毎日話を聞かされた。
たしかにかっこよかったし面白かったけど、私は久慈さんのほうが活躍していると思っていたので、久慈さんが新人王を獲ったときは「やっぱり大人は久慈さんをちゃんと見てるんや!」と嬉しかった。
桧山が4番になった。
「たしかに他におらんけど、桧山て!」と思った。
しかし桧山のことは好きだった。
顔が可愛くて喋りも達者なので、母ともども応援していた。でも三振王になった。それでも4番はひぃやん以外考えられなかった。
和田さんの打率くらいしか明るい話題はなかった。
藪くんも応援していたがやっぱり勝てなかった。
そんな暗黒時代に活躍していた関川さんと久慈さんがトレードで移籍になった。本気でびっくりして、移籍がこんなに悲しいことだとはじめて知った。
またドラフトがあった。
今度は高校生ピッチャー藤川を1位指名したので、「この低迷期になんで高校生獲っとんねん!即戦力を獲れよ!」とマジギレした。女子大生とは思えない科白だった。
若い浜中とひぃやんと熾烈なポジション争いが始まった。
私はひぃやんを応援していたが、母はいつの間にか浜中が好きになっていたらしく、「どっちも出てほしいわ~」と苦悩していた。
FA制度ができ、片岡さんが来た。涙の移籍会見に感情移入して、これからよろしくね、と思った。
片岡さんはなんかやってくれそうで超期待したが、わりとすぐケガをした。
私はこの頃に音楽に目覚め、ライブに行きまくるようになった。少しだけ野球から遠ざかった。
■甲子園デビューした社会人
金本さんが来た。来て欲しかったので、土下座したファンにグッジョブ!と思った。
これまた何かしてくれそうだと思ったら、金本さんは本当に大事なところでばかり打ってくれて、なんと優勝した。
この頃は社会人になっていた私は毎日『すぽると』さえ間に合わない時間にしか帰宅できず、あまり中継は見てなかったがネットの一球速報を会社で見ていた。
優勝の瞬間はその一球速報で知り、慌てて会議室のテレビをつけて胴上げを見た。
監督が岡田になった。
現役を知ってる人が監督をやる年齢になったんだなぁ、と感慨深かった。
鳴り物入りで鳥谷がやってきた。
若者には頑張って欲しかったが、私の大好きなもっさんからポジションを奪ったので、「鳥谷がセカンドやればいいのにー」と言ったら母には「新人にコンバートはちょっと無理やで」と冷静に言われて納得した。
私は転職した。
仕事はまあまあ忙しかったので、帰るといつも中継ぎ陣かJFKが投げていた。
劇場型の久保田にヒヤヒヤし、球児くんを懸命に応援した。まさかあの高校生がこんなになるとはねぇ、と密かに思っていた。
母は仕事に明け暮れる私をよそに、「赤星また痩せたなぁ、早よう嫁さんもろてご飯作ってもらいー」とテレビに語りかけるのが日課になった。
新しい職場には甲子園の近くに住んでいるという筋金入りの女性がいて、私が子どもの頃に掛布さんが好きだったと言ったら非常に受けた。
実は、こんなに好きなのに甲子園に行ったことがないとその人に言うと、連れていってくれた。
2005年の夏だ。
仕事終わりに甲子園へ駆けつけ、その外観に感動していると、わぁっとものすごい大歓声が球場から響いた。
アニキの先制ホームランを見逃した。
びっくりするくらい今岡がランナーを返した年にも関わらず、スタメンが片岡さんで嬉しかった。
世間の期待は浜中にかかっていたが、ひぃやんが出ていてすごく嬉しかった。
しかも勝った。
ヒーローはアニキと下柳という超レアなお立ち台で、球場観戦に見事にハマッた。
自分でチケットを取って甲子園やら大阪ドームやらに行くようになった。
偶然にも、ライブでよく見ていたバンドが選手のテーマ曲を書き下ろしたこともあって、ライブに野球にと忙しくなった。
片岡さんが引退した。引退試合の日はやっぱり忙しくて一球速報で見た。
悲しかった。
でも『ぶったま!』のレギュラーが決まったので、あっちゃんには毎週テレビで会えるからいいか、と思った。
■渡辺元年、わっぴー誕生
2007年が始まった。
いつの間にかいーくん(井川)がいなかった。
ある日、見たことのないピッチャーが敗戦処理をしていた。
背のちいさな、細身でツリ目のピッチャー。それが渡辺だった。ツリ目が好きな私は記憶しておくことにした。
ひぃやんは代打のひとになっていたが、打っても打ってもセカンドゴロだった。泣けた。
いよいよ球場観戦が増え、ナンバージャージを買うことにした。
私は買うなら背番号入りにしよう、そして金本さんか球児くんにしよう、と思っていた。
ふたりとも阪神に欠かせなかったし、金本さんのここぞという場面で打つ姿に掛布さんを重ねていた。
球児くんは、誰よりも打たれてほしくないピッチャーだった。
だが結局、セール価格になった2003年の8KATAOKAを買った。球場では注目の的だった。
同時期にひぃやんのナンバージャージを買った友人は、逆にどんどん減っていく24ユニに恐れおののいていたが、満塁ホームラン打ったり上原から決勝ホームランを打ったらまた増えた。
夏になって、渡辺がまた投げていた。
気が付けば敗戦処理からうっかり逆転してもらって勝ちがついたりしていた。
あぁ、渡辺がステップアップしている。
嬉しかった。
秋には打たれはじめた久保田の代わりに接戦の場面で出てきた。
得点圏にランナーを背負った渡辺を見て、 「私、この人に打たれてほしくない!!!」 と球児くん並みに強く強く祈った。
渡辺は抑えた。
私は本当に嬉しかった。球児くん並みに嬉しかった。
あ、私この人が好きなんだ。
毎日、私が帰る頃に投げているツリ目の若者がだんだんとステップアップしていく姿に喜びを感じていたことに気づいた。
ある日、延長戦になって、JFKを使い果たしたとき、球児くんのあとに出てきたのが渡辺だった。
これぞステップアップだ。
そんな場面で使ってくれた岡田はんに私は感謝した。
9月末、球場で観戦していると渡辺が出てきた。私はちゃんと抑えて欲しくてどきどきそわそわした。
一緒に見ていた友人が「渡辺くんにあだ名つけてよ」と言ってきたので「わっぴー」と名づけた。
愛着がわいた。
シーズン終盤、鳥谷が怪我をして試合を休んだ。
今までに味わったことのない喪失感だった。そんな自分にびっくりした。私が望んでも望まなくても絶対にショートにいた鳥谷。知らぬ間に好きになっていた。
その年は激しい追い上げに神経をすり減らしたが結局中日に負けた。
でも楽しかった。
初めてのクライマックスシリーズは、母は「連勝か連敗やな」といい、本当に連敗して終わった。
オフになって、初めてひぃやんに間近にお会いできた。じぃんときたけど、不思議な気持ちでもあった。
ピヨとセッキーへの愛が増した。
わっぴーにも遠巻きに会えた。至って普通のお兄ちゃんだった。
おさむちゃんがトレードされた。母はとてつもなく寂しがった。
私もまた、失って初めてこんなに好きだったんだと気づいた。
自分への誕生日プレゼントに、25WATANABEのナンバージャージをネット注文したが、3週間後に新井くんがやってきた。
若干、本気で恨んだ。
オリンピックの予選があり、国際試合の面白さに目覚めた。新井くんがヘッドスライディングを下が届かず、地面でクロールしていた。ちょっと気に入った。
ついにファンクラブに入った。わっぴーはスタバでプロポーズしていた。
■2008年
新井くんが大雑把な性格で、消火器をバッグに入れられたのに気づかず持ち帰ったことを知った。気がついたら、チョー可愛く思えるようになった。
スカパーに入ってキャンプから真剣に見まくった。
ピヨ谷くんの表情の変化がわかるようになった。普通の若者だった。
初めて安芸キャンプも行った。
夜行バスで現地についた朝、友人がスポーツ新聞のサイトを確認すると、渡辺が前日に二軍落ちして鳴尾浜に帰っていた。
魂が抜けた。
開幕戦に行ったらわっぴーが登板した。
岡田はんありがとう、と泣きそうになった。
甲子園の開幕戦、アニキの2000本安打を見るつもりで行ったら、ひぃやんが打った。
前年、一度でいいから生で見たいと思っていたひぃやんのヒット。しかもタイムリー。そのうえお立ち台。友人は泣いた。
ひぃやんは新・代打の神様になった。
新井くんは可愛すぎてタカヒロになり、新井ちゃんはアニキが好きすぎてキモい域に達した。
オリンピックと交流戦について考えすぎた結果、パリーグがめちゃめちゃ楽くなり、野球というスポーツそのものが楽しめるようになった。
一方で阪神は今年こそ優勝すると信じていたので、30試合近く見に行った。
わっぴーの初お立ち台を甲子園で見たけど、負けのついた試合も2試合とも見た。うなされた。
球児くんの救援失敗も全部見た。のろわれているとは思っていない。
貴浩の可愛さと打ちまくりっぷりにオリンピックも超期待したけど、まさかの骨折発覚で泣き崩れた。
本当に優勝する勢いだった分、オフはへこんだけど、本当に楽しい楽しいシーズンだった。
またオフにひぃやんに会えた。前の年よりは不思議じゃなくなった分、可愛く思えた。セッキーは相変わらず可愛かった。
球児くんに直接「今年楽しかったよ」と伝えることができて、本当によかった。
■2009年
とても楽しみである。
目指すはWJF。
今日の猛虎紳士録にて。
久保コーチがゲストでした。
私、ナックルなんてギャンブルな球すきじゃないんですけど、久保コーチいわく「渡辺はナックルを投げることによって自身のピッチングを見直すきっかけになり、結果ストレートに磨きがかかった」とのこと。
うん、なら許す(笑)
中田さんがいうには、ゆるい球を投げることでピッチング動作がゆっくりになり、いろいろとわかることがあるんだって。
なので、遅いカーブなどをたくさん投げて確認することは多いそうです。
それがわっぴーにとってはナックルだったと。
なるほどね。
勉強になりました。
いつ生かすねん私(笑)
久保コーチがゲストでした。
私、ナックルなんてギャンブルな球すきじゃないんですけど、久保コーチいわく「渡辺はナックルを投げることによって自身のピッチングを見直すきっかけになり、結果ストレートに磨きがかかった」とのこと。
うん、なら許す(笑)
中田さんがいうには、ゆるい球を投げることでピッチング動作がゆっくりになり、いろいろとわかることがあるんだって。
なので、遅いカーブなどをたくさん投げて確認することは多いそうです。
それがわっぴーにとってはナックルだったと。
なるほどね。
勉強になりました。
いつ生かすねん私(笑)
デイリー オールスター新井貴浩独占手記(8月1日付)
【感謝】(題字は本人直筆)
・惜しい・・・もうひと伸び
大歓声が本当にうれしかった。そんな皆さんの期待に応えることができずに、すいません。
オールスターへの出場が決まったときの会見で「ヒットを狙ってもしょうがないので、ホームランを狙う」と宣言したことは、ちゃんと覚えていました。試合前に原監督に「腰はどうだ?」と聞かれて「いけます」と答えましたし、試合に出る限りは、痛い、かゆいを言うつもりもありませんでした。皆さんとの約束を果たそうと、できる限りを打席で表現しようと思っていました。1打席目でうまくライトへ飛んでくれたんですけど・・・。もうひと伸び足りませんでしたね。
今回で4度目のオールスター出場になります。実は、僕のオールスターデビューは6年前。それは、悲しみをこらえて立った舞台だったんです。
・人生初の大舞台は代走
02年の7月10日。広島の松田耕平オーナー(当時)が亡くなったんです。その2日後のオールスターに出場するため、僕は葬儀に参列できず、東京ドームへ向かいました。人生初の大舞台は、代走出場。お世話になった人のために、打ちたい・・・。東京から松山へ移動して迎えた第2戦。僕の思いが、天国へ届きました。セ・リーグの若松監督が、僕を8番1塁でスタメン起用してくれました。
・唯一僕だけホームラン
7回の第3打席。僕は、当時日本ハムの中村隼人投手から、レフトスタンドへホームランを打つことができたんです。腕に着けた喪章を触りながら、ベースを回りました。その日の松山は、外野からホーム方向へ、考えられないような逆風が吹いていて、松井秀喜さんや、中村ノリさんが完ぺきに打ったホームラン性の打球が、ことごとく風に押し戻されて失速していったんです。
そんな中、唯一僕だけがホームランを打てた。天国の耕平さんが、僕の打球を押してくれたんだと思うんです。あの松山坊ちゃんスタジアムの光景、打球の軌道は印象深かった。
今日は金本さんの凄さを改めて知らされましたね。なかなか狙っても打てるもんじゃないし、まして相手はダルビッシュ投手。やっぱり役者ですよ。
・05年、2度目も僕の宝物
05年、僕にとって2度目のオールスターで、初めて金本さんと一緒に出場できたことも僕の宝物です。1戦目の試合前、西武ドームの3塁側ベンチで金本さんと二人で撮った写真は、今も広島の実家に大切に飾ってあります。
腰の治療に専念して、試合に出れなかった間も、皆さんから多くの励ましをいただきました。その間「新井球宴辞退」といった報道も出ましたが、僕はオールスターの欠場を考えたことは、一度もありませんでした。32万
7691票を投じてくれたファンの方への「感謝」の気持ちで胸が一杯です。今夜打席に立ったときに送って下さった大声援は、一生忘れません。(阪神タイガース内野手・新井貴浩)
【感謝】(題字は本人直筆)
・惜しい・・・もうひと伸び
大歓声が本当にうれしかった。そんな皆さんの期待に応えることができずに、すいません。
オールスターへの出場が決まったときの会見で「ヒットを狙ってもしょうがないので、ホームランを狙う」と宣言したことは、ちゃんと覚えていました。試合前に原監督に「腰はどうだ?」と聞かれて「いけます」と答えましたし、試合に出る限りは、痛い、かゆいを言うつもりもありませんでした。皆さんとの約束を果たそうと、できる限りを打席で表現しようと思っていました。1打席目でうまくライトへ飛んでくれたんですけど・・・。もうひと伸び足りませんでしたね。
今回で4度目のオールスター出場になります。実は、僕のオールスターデビューは6年前。それは、悲しみをこらえて立った舞台だったんです。
・人生初の大舞台は代走
02年の7月10日。広島の松田耕平オーナー(当時)が亡くなったんです。その2日後のオールスターに出場するため、僕は葬儀に参列できず、東京ドームへ向かいました。人生初の大舞台は、代走出場。お世話になった人のために、打ちたい・・・。東京から松山へ移動して迎えた第2戦。僕の思いが、天国へ届きました。セ・リーグの若松監督が、僕を8番1塁でスタメン起用してくれました。
・唯一僕だけホームラン
7回の第3打席。僕は、当時日本ハムの中村隼人投手から、レフトスタンドへホームランを打つことができたんです。腕に着けた喪章を触りながら、ベースを回りました。その日の松山は、外野からホーム方向へ、考えられないような逆風が吹いていて、松井秀喜さんや、中村ノリさんが完ぺきに打ったホームラン性の打球が、ことごとく風に押し戻されて失速していったんです。
そんな中、唯一僕だけがホームランを打てた。天国の耕平さんが、僕の打球を押してくれたんだと思うんです。あの松山坊ちゃんスタジアムの光景、打球の軌道は印象深かった。
今日は金本さんの凄さを改めて知らされましたね。なかなか狙っても打てるもんじゃないし、まして相手はダルビッシュ投手。やっぱり役者ですよ。
・05年、2度目も僕の宝物
05年、僕にとって2度目のオールスターで、初めて金本さんと一緒に出場できたことも僕の宝物です。1戦目の試合前、西武ドームの3塁側ベンチで金本さんと二人で撮った写真は、今も広島の実家に大切に飾ってあります。
腰の治療に専念して、試合に出れなかった間も、皆さんから多くの励ましをいただきました。その間「新井球宴辞退」といった報道も出ましたが、僕はオールスターの欠場を考えたことは、一度もありませんでした。32万
7691票を投じてくれたファンの方への「感謝」の気持ちで胸が一杯です。今夜打席に立ったときに送って下さった大声援は、一生忘れません。(阪神タイガース内野手・新井貴浩)
(8月2日付)
球宴では皆さんの大歓声がヒットを打たせてくれました。成瀬も僕が打てるように投げてくれて・・・。荒木のレフトオーバーで2塁でストップしたら、1塁コーチの金本さんに「3塁に行けよ!」って(笑)、代走出されちゃいました。カネさん、ご愛嬌で許して下さいね。でも、本当に楽しい夜になりました。
僕をこんな素晴らしい舞台へ送り出してくれたファンの方々に、心から感謝したいと思います。
試合後、横浜から東京へ移動しました。いよいよ2日からジャイアンツ球場で北京五輪の合宿が始まります。
チームを離れる前に、タイガースファンの皆さんに、僕の口からきちんと報告しておきたいことがあります。腰のことです。ずっとお話できず申し訳ない気持ちでいっぱいです。
最初に痛みを感じたのは6月14日のロッテ戦(千葉)、試合前でした。
バッティング練習中、バットを振るたびに左腰の付近にゴン、ゴンと鈍痛が走ったんです。カープ時代から左の背筋に持病があったんですけど・・・知らない間に疲労が蓄積していたんだと思います。
最初は大したことないって我慢してたんですが、日に日に痛みが増して、検査を受けることになりました。痛みの根源が深いところにあって、最初はなかなか発見できなかったんですが、2度目の検査ではっきりしました。腰椎の椎間関節炎。岡田監督と相談した結果、休養して治療に専念することになりました。
チームに貢献できない自分にイライラしましたし、こんな状態ではチームもそうだし、日本代表へ行っても迷惑がかかる・・・ふがいない気持ちでいっぱいでした。
僕が初めて試合を欠場した16日の夜、ニュースを見てびっくりしました。日本代表の星野監督が「新井のためのオリンピックでもある」と言ってるじゃないですか・・・。腰痛のストレスで沈んでいた心が、奮い立ちました。ぼくの中で何かがはじけました。よし、何としてでもやってやろうじゃないかと。
実は、アジア予選の時も背筋痛がひどくて日本でも合宿中はまともにバットを振れなかった。星野監督はそれを知りながら僕を4番で使ってくれました。発奮しないわけがありません。
今日ももテレビ解説で来られていた田淵コーチから「新井と心中する」と言われました。
腰は徐々に回復しています。本番までに何としてでも間に合わせたい。打てなかったら、頭部死球ででも塁に出てやろうと思っています。初戦がキューバ?関係ありません。自分の選手生命をかけるくらいの覚悟で、北京へ行ってきます。日本を代表する責任はそれほど重いものだと思うし、もちろん、僕だけじゃなしに代表選手全員がそう思っています。国民の期待もすべて背負って戦ってくるつもりです。
甲子園の中日戦(25日)で復帰して代打に立った時の甲子園の歓声は、ずっと忘れません。
まだシーズンの半分もタイガースにいないのに、皆さんに「おかえり」と言ってもらえた。あのとき、僕はタイガースの一員として認めてもらっていると実感しました。感動で鳥肌が立ったことを覚えています。
タイガースファンの皆さん、少しの間チームを離れますが、北京へ行っても、心はタイガースの一員です。勿論、金本さんにも連絡します。いつも冗談しか言わないけど、今回は本気でアドバイスしてくれると思います(笑)。
矢野さん、球児とともにタイガースの代表として、金メダルを持って帰ってきます。全身全霊をかけて戦ってきます。(阪神タイガース内野手・新井貴浩)
僕をこんな素晴らしい舞台へ送り出してくれたファンの方々に、心から感謝したいと思います。
試合後、横浜から東京へ移動しました。いよいよ2日からジャイアンツ球場で北京五輪の合宿が始まります。
チームを離れる前に、タイガースファンの皆さんに、僕の口からきちんと報告しておきたいことがあります。腰のことです。ずっとお話できず申し訳ない気持ちでいっぱいです。
最初に痛みを感じたのは6月14日のロッテ戦(千葉)、試合前でした。
バッティング練習中、バットを振るたびに左腰の付近にゴン、ゴンと鈍痛が走ったんです。カープ時代から左の背筋に持病があったんですけど・・・知らない間に疲労が蓄積していたんだと思います。
最初は大したことないって我慢してたんですが、日に日に痛みが増して、検査を受けることになりました。痛みの根源が深いところにあって、最初はなかなか発見できなかったんですが、2度目の検査ではっきりしました。腰椎の椎間関節炎。岡田監督と相談した結果、休養して治療に専念することになりました。
チームに貢献できない自分にイライラしましたし、こんな状態ではチームもそうだし、日本代表へ行っても迷惑がかかる・・・ふがいない気持ちでいっぱいでした。
僕が初めて試合を欠場した16日の夜、ニュースを見てびっくりしました。日本代表の星野監督が「新井のためのオリンピックでもある」と言ってるじゃないですか・・・。腰痛のストレスで沈んでいた心が、奮い立ちました。ぼくの中で何かがはじけました。よし、何としてでもやってやろうじゃないかと。
実は、アジア予選の時も背筋痛がひどくて日本でも合宿中はまともにバットを振れなかった。星野監督はそれを知りながら僕を4番で使ってくれました。発奮しないわけがありません。
今日ももテレビ解説で来られていた田淵コーチから「新井と心中する」と言われました。
腰は徐々に回復しています。本番までに何としてでも間に合わせたい。打てなかったら、頭部死球ででも塁に出てやろうと思っています。初戦がキューバ?関係ありません。自分の選手生命をかけるくらいの覚悟で、北京へ行ってきます。日本を代表する責任はそれほど重いものだと思うし、もちろん、僕だけじゃなしに代表選手全員がそう思っています。国民の期待もすべて背負って戦ってくるつもりです。
甲子園の中日戦(25日)で復帰して代打に立った時の甲子園の歓声は、ずっと忘れません。
まだシーズンの半分もタイガースにいないのに、皆さんに「おかえり」と言ってもらえた。あのとき、僕はタイガースの一員として認めてもらっていると実感しました。感動で鳥肌が立ったことを覚えています。
タイガースファンの皆さん、少しの間チームを離れますが、北京へ行っても、心はタイガースの一員です。勿論、金本さんにも連絡します。いつも冗談しか言わないけど、今回は本気でアドバイスしてくれると思います(笑)。
矢野さん、球児とともにタイガースの代表として、金メダルを持って帰ってきます。全身全霊をかけて戦ってきます。(阪神タイガース内野手・新井貴浩)
スポニチ開幕企画(3月29日付)
・初ヒット出た
思い出に残る特別な試合になった。安打が出た安堵、それ以上に勝てた喜び。あの場面。四球を選んだ4回だ。金本さんの打球が抜けた時点で絶対に本塁まで還ると決めて走った。三塁コーチャーの和田さんが制止していたことに気付いたのは走り過ぎてから。とにかく必死で走った。
去年と違うユニホームで臨む公式戦。打順は3番。4番は金本さんだ。金本さんが見てくれている。“殺気”さえ伝わる視線。この緊張感、この一体感。この人と共に戦える、こんな日が再び来ることを求めていたのかもしれない。
10年前、金本さんと最初に会った時のことはいまもはっきり覚えている。入団1年目。広島の大野練習場であいさつした時だった。「お前が新井か。やっちゃるけぇのお」。いきなり広島弁で言われた。同じ広島出身という共通点があったからかもしれない。すぐに食事に誘ってもらった。いつの間にか何をするにも一緒になった。なぜかわからないうちに可愛がったくれた。
・また金本さんと
広島から阪神へ移った後も、苦しんでいた時に打撃を教えてくれたのが金本さんだった。阪神で優勝した時の話も聞かせてくれた。「ビールかけはいいものだぞ」と。あの人がいなければ、いまの自分はない。また一緒にやれることが、移籍から4カ月がたったいまでも夢のようだ。
オープン戦で本塁打を打った時だった。ベースを周って戻ったベンチ前で金本さんの手に自分の手を合わせようとしたら透かされた。広島時代に何度もされたイタズラを味わうのは何年ぶりになるだろう。本当に懐かしかった。
・消えぬ思い・・・
広島時代に使っていた物で捨てた物はひとつもない。ユニホームも自宅に大切にとっている。自分をここまで育ててくれたのは広島カープという球団。その恩を忘れることはできない。去年の秋からの日々、ひとりになった時にいつも思う。自分は裏切り者なのか-。その思いはずっと消えない。これから先の時間が薄めてくれるのか。それはいまもわからない。
いろんな思いを胸に、それでも前へ進むしかない。プレーボールがかかれば、考えることは目の前の試合に勝つこと。それだけ。器用な人間ではないことは自分が一番分かっている。だから、打撃でも守備でも精一杯食らいつくしかない。
・まだこれから
春季キャンプやオープン戦、新しい環境に慣れない中でチームメイトやスタッフの人たちには本当によくしてもらった。赤星には同期会を開いてもらった。キャンプ打ち上げの会では一丸の空気を強く感じた。
でも・・・。
自分はまだ阪神で何もしていない。何も貢献していない。すべてこれから。本当にチームの一員と認めてもらえるのはこれから。シーズンは長い。楽しい時も苦しい時もある。みんなと一緒に乗り越えていきたい。
・一歩ずつ前へ
秋には優勝をかけた激しい戦いが待っている。いままで経験したこともない緊張感に包まれるのだろうか。想像しただけでも胸が高まる。そして、最後は絶対に優勝する。144試合のひとつが終わった。特別な夜が明ければ。次の戦いがやって来る。前へ。そう、一歩ずつ前へ進んでいこう。(阪神タイガース内野手)
・初ヒット出た
思い出に残る特別な試合になった。安打が出た安堵、それ以上に勝てた喜び。あの場面。四球を選んだ4回だ。金本さんの打球が抜けた時点で絶対に本塁まで還ると決めて走った。三塁コーチャーの和田さんが制止していたことに気付いたのは走り過ぎてから。とにかく必死で走った。
去年と違うユニホームで臨む公式戦。打順は3番。4番は金本さんだ。金本さんが見てくれている。“殺気”さえ伝わる視線。この緊張感、この一体感。この人と共に戦える、こんな日が再び来ることを求めていたのかもしれない。
10年前、金本さんと最初に会った時のことはいまもはっきり覚えている。入団1年目。広島の大野練習場であいさつした時だった。「お前が新井か。やっちゃるけぇのお」。いきなり広島弁で言われた。同じ広島出身という共通点があったからかもしれない。すぐに食事に誘ってもらった。いつの間にか何をするにも一緒になった。なぜかわからないうちに可愛がったくれた。
・また金本さんと
広島から阪神へ移った後も、苦しんでいた時に打撃を教えてくれたのが金本さんだった。阪神で優勝した時の話も聞かせてくれた。「ビールかけはいいものだぞ」と。あの人がいなければ、いまの自分はない。また一緒にやれることが、移籍から4カ月がたったいまでも夢のようだ。
オープン戦で本塁打を打った時だった。ベースを周って戻ったベンチ前で金本さんの手に自分の手を合わせようとしたら透かされた。広島時代に何度もされたイタズラを味わうのは何年ぶりになるだろう。本当に懐かしかった。
・消えぬ思い・・・
広島時代に使っていた物で捨てた物はひとつもない。ユニホームも自宅に大切にとっている。自分をここまで育ててくれたのは広島カープという球団。その恩を忘れることはできない。去年の秋からの日々、ひとりになった時にいつも思う。自分は裏切り者なのか-。その思いはずっと消えない。これから先の時間が薄めてくれるのか。それはいまもわからない。
いろんな思いを胸に、それでも前へ進むしかない。プレーボールがかかれば、考えることは目の前の試合に勝つこと。それだけ。器用な人間ではないことは自分が一番分かっている。だから、打撃でも守備でも精一杯食らいつくしかない。
・まだこれから
春季キャンプやオープン戦、新しい環境に慣れない中でチームメイトやスタッフの人たちには本当によくしてもらった。赤星には同期会を開いてもらった。キャンプ打ち上げの会では一丸の空気を強く感じた。
でも・・・。
自分はまだ阪神で何もしていない。何も貢献していない。すべてこれから。本当にチームの一員と認めてもらえるのはこれから。シーズンは長い。楽しい時も苦しい時もある。みんなと一緒に乗り越えていきたい。
・一歩ずつ前へ
秋には優勝をかけた激しい戦いが待っている。いままで経験したこともない緊張感に包まれるのだろうか。想像しただけでも胸が高まる。そして、最後は絶対に優勝する。144試合のひとつが終わった。特別な夜が明ければ。次の戦いがやって来る。前へ。そう、一歩ずつ前へ進んでいこう。(阪神タイガース内野手)
【阪神・新井、ブログ作っちゃおっかな♪】サンスポ
阪神・新井が23日、ブログの開設を示唆した。
「そういう必要性もあるかなと最近思うようになりました。個人的には今まで興味はなかったのですが、僕からファンの方へ直接発信することも必要かもしれない」。
詳細は未定だが、今後も検討していく。(以下略)
---
や、やめてくれ!ブログ廃人になってまう!(笑)
ちなみにうわさの薔薇柄Tシャツは『ルシアン・ペラフィネ』の新作、バラスカルプリント長袖Tシャツ(約¥45,000)です・・・。
阪神・新井が23日、ブログの開設を示唆した。
「そういう必要性もあるかなと最近思うようになりました。個人的には今まで興味はなかったのですが、僕からファンの方へ直接発信することも必要かもしれない」。
詳細は未定だが、今後も検討していく。(以下略)
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や、やめてくれ!ブログ廃人になってまう!(笑)
ちなみにうわさの薔薇柄Tシャツは『ルシアン・ペラフィネ』の新作、バラスカルプリント長袖Tシャツ(約¥45,000)です・・・。
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sora
性別:
女性
自己紹介:
生まれたときから阪神ファン。幼児期から六甲おろしと選手別ヒッティングマーチを歌う。初めて好きになった選手は掛布さん。
大人になって甲子園デビューし、観戦の楽しさを知ってディープに転落。甲子園で見た片岡さんの3ランは忘れない。
ただいま渡辺亮投手を力いっぱい応援中。新井貴浩選手が面白くて仕方ない。
大人になって甲子園デビューし、観戦の楽しさを知ってディープに転落。甲子園で見た片岡さんの3ランは忘れない。
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